年収の高さと幸福度は比例するのか?
プリンストン大学の調査によると、世帯年収が7万5000ドルに達するまでは稼ぐ金額と幸福度は比例するものの、それ以上を稼いでもあまり幸福を感じられなくなるそうです。
これは7万5000ドルの年収があれば、日常生活で欲しいものは我慢しなくても済むレベルになるからだと僕は考えておりますが、不足感がなくなることで頑張る目標も見失ってしまうのだろうと思います。
お金さえあれば、周りの世界が違って見えてくると考えている人もいるかもしれませんが、実際には大した違いはないものです。お金があることで借金の無心が多くなり、友人が離れてしまうこともありますし、年収数千万円とばれても、きれいな女性から言い寄られることなどまずありません。
身内、親戚からも、何かあれば稼いでいる人がお金を出すのが当然みたいな感じで、あらゆる面での負担が多くなってきます。病院に行けばいったで何十万円もする歯を入れられ、何かと出費が多くなるものです。
欲しいものはたいてい買えるようにはなりますが、2、3日もすれば、買ったことすら忘れてしまいますし、買ったまま一度も使わずに押入れのなかに入ってしまうこともあります。よーく考えてみると、自分が欲しいものなど、実は何もなかったのだということに気付くわけです。
毎日グルメな食べ物を買いあさったとしても、次第に何を食べてもおいしさを感じられなくなります。毛ガニや特上寿司などを食べても、明日になれば、昨日は何を食べたんだっけと覚えてもいません。
ファーストワインや年代物ウィスキーを買っても、味がよくわからず、何かだまされたような気もしてしまうものです。かえって、しゃけとかぶっかけ卵、カップラーメンの方がおいしく感じることも多いものです。
若い頃には血眼になってやっていたギャンブルも、財布に札束を入れた状況では勝っても負けてもどうでもよくなり、やっていても眠くなります。当った、はずれたなどはどうでもよくなり、かつてあったワクワク感、ドキドキ感が消え失せ、まるでゲーセンで遊んでいるように感じてしまうものです。
また、労働人口比率上位2%以内の高額所得者になったとしても、誰が褒めてくれるわけでもありません。税金をちょっとでも滞納すれば、税務署からどぎつい文面で催告状が送られてきます。
あれほど血眼になって追い求めていたお金や成功が、いざ手にしてみると実はむなしいものだったと気付く結果になり、「こんなはずじゃなかった…。」と目標を失ってしまうことになるわけです。
目標を持って頑張っていた時の方がかえって充足感は感じられますし、実際にその目標を達成してしまった時点で、これ以上稼ぐことに何の意味があるのかと虚しさを感じてしまうこともあります。
また、下手に年収が高いと時給換算で何万円みたいな考え方がしみついてしまい、ちょっと遊びに出かけるのももったいなく感じられ、そうなると休むに休めず、旅行にも行けず、かえって自分の時間がなくなってしまうものです。
そんなココロの隙間に入り込んでくるように、あやしい話が次々にやってきます。不動産投資だの株式投資だの、どこからかともなくあやしい話が自然とやってくるようになるわけですが、そういうのにコロっと騙されてしまったりもするわけです。
なので、年収に比例して幸福度や不幸度の絶対量が変わるのではなく、性質が変わるものだと僕は考えております。貧乏な時には貧乏なときなりの幸せもありますし不幸もあります。高額所得者になればなったで、税金の悩みや失うことの恐怖みたいなものが生じてまた悩むことになるわけです。
なので、お金があってもなくても、今その場で幸せになる努力をするべきではないでしょうか?その場で幸せを感じられなかったとしたら、年収が増えたとしても常に不足感がつきまとい、幸福を感じることができなくなってしまいます。
年収と幸福度の関係は比例でも放物線でもなく、X軸に対して常に平行線をたどるイメージで生活していくのが、幸せな富裕層になるポイントではないかと思います。